名前

低く地を這うようなうめき声に、少女は目を開けた。うめく声は微かなものだったが、少女を浅い眠りから呼び覚ますには充分だった。

隣を窺うと、この世の誰よりも憎い男が眠っていた。天蓋の間から差し込む月の光が、端正な男の顔を淡く浮かび上がらせている。

少女は音を立てぬようそっと起き上がり、彼を覗き込んだ。

眠る彼の表情に、普段見せる溢れんばかりの自信はない。何か悪夢でも見ているのだろう、時折うめき声を上げるその顔は、何とも弱々しくまるで幼い子どものようにも思える。

少女は唇を噛みしめ、痛む胸に手をあてた。

 彼は、少女から何もかも奪っていった。

国王である父も、皇太子であった兄も、この国も、純潔さえも、有無を言わさず、恥知らずにも傲慢にむしり取った。

いつか彼に復讐の刃を向けることだけが今の少女の生き甲斐だった。だが、その彼がまだナイフも持てぬ少女の目前で、夢に、何かに、苦しんでいる。

そんなことはあってはならなかった。彼はいつもふてぶてしく不遜に憎む対象でなければならないのだ。

時折見せる気遣いを、向けられる眼差しに潜む優しさを、心を凍らせ見ぬふりをしてきたように、目を背けねば。そう思うのに、身体が動かない。

「……、…………、……」

やがて彼は眠りの淵で言葉にならぬ言葉を紡ぐ。その閉じた目蓋から一筋の涙がこぼれ落ちたのを少女は見た。

思わず手を伸ばし、けれどその手は涙に届く前にがっしりとした彼の手に掴まれる。

一瞬びくりと震えたが、彼が眠りから覚醒した様子はない。

ホッと安堵したのも束の間、今度は掴まれた手の熱さが少女の心を捉えた。

頬が紅潮するのが分かる。胸が、熱い。

その熱さの名を何と呼ぶのか、少女はまだ知らなかった。