おばけのキーホルダー

遠くから聞こえてくる澄んだ音色に、少女は重い瞼を上げた。もたれ掛かっている鉄格子は体温を吸って生温い。いつの間にか眠っていたらしい。身動ぎすると不自然な姿勢で固まった身体がぎしりと軋んだ。

城の地下深くにあるこの牢獄は中心を貫く石畳の通路に沿っておよそ三十の監房があるが、使われているのは少女のいる最奥にある一つだけだった。捕らえられておよそ十年。少女は音のない孤独と共にあった。

病も飢饉も人の心に芽吹く悪の心さえも、この世界の厄災は全て少女のもたらすものである――その預言を信じるならば、少女が捕らえられている今、悪事を働く者はいないのだろう。"忌み子"。それが少女の名であり罪であった。親から貰った名は既に使う者もなく、時の彼方へ霞んでしまった。顔を合わせるのは、日に一度、僅かな糧を運んでくる看守のみ。彼は何とか手の届く場所に薄いスープと固いパンを置くと、目も合わせずに足早に去っていく。まるで病気か何かのように災いが移る事を怖れているようだった。

嘆きも絶望もとうの昔に枯れ果てた。幸いにも幼かった少女が与えられた環境に適応するのは早く、歪むでも達観するでもなく世界はこういったものであると受け入れる事が出来た。

しゃらんしゃらん――と微かだった響きが、はっきりとした形を伴って近付いてくる。鈴の音にも似た響きは、監房の鍵束が歩調に合わせて跳ねる音だ。だが、靴底が石の床を叩く硬い音は聞こえない。少女は表情を忘れて久しい顔にぎこちなく笑みを浮かべ、食い込む鉄格子を引き剥がしながら身を起す。

暗がりに目を凝らすと、やがて蝋燭の頼りない灯りの中に大きな影が浮かび上がった。

じゃらん、と鍵束の揺れる音が一層近くなる。だが、それを奏でるのは人ではない。闇に光る双眸に夕陽に照らされたが如く赤い銅色のたてがみ、白い吐息をまとわりつかせる口からは鋭い牙が覗いている。肩もそこから伸びる腕も肉食獣そのもので、それを器用に曲げ鋭い爪先に鍵束を引っかけている。背にはまばゆい翼が一対。下半身はなく先細りにぼやけた身体が石畳の掌一つ分上を滑ってくるが、羽ばたいていないので翼の力で進んでいるのではないようだ。

ここのところ"彼"は、看守が去ってしばらくするとやってくる。監獄の冷えた空気に凜とした鍵の音を響かせ、何をするでもなく数度通路を往復すると、来た時と同じようにまた闇の向こうへと消えていく。彼は一度も少女を振り返ることなく目を合わせないという点では看守と同じであったが、自分以外の誰かがいるという喜びが少女を鉄格子に張りつかせた。

じゃらんと鍵束を鳴らして赤銅の獅子が少女の前にさしかかる。しかし、今日はいつもと様子が違った。獅子は少女の前で見えない足を止めると、ゆっくりとこちらを振り返った。そして鉄格子に顔を寄せ、血走った目でまじまじと少女を見つめた。

荒々しい吐息が頬を撫でる近さ。鋭い牙からしたたる涎がくっきりと見える。思わず身体をのけぞらせた少女だったが、しばし目を瞬かせた後、恐る恐る獅子へと顔を寄せた。

「お前、俺が怖くないのか?」

少女の行動が意外だったのか、低い唸り声に混じって獅子が問いかけてくる。

「あなたこそわたしガ怖くないノ?」

長らく使っていなかった声はひどく小さく掠れていたが、獅子の耳にはちゃんと届いたようだ。彼は呆れたようにフンッと鼻を鳴らした。

「貧弱な小娘をどう怖がれと言うのだ」

少女は目を細めた。

「あなたノ毛並みはつやつやとやわらかそう。すてきね、お日様のにおいがするノかナ」

少女は鉄格子から溢れるたてがみに手を伸ばそうとし、けれど拳を握る。

「触らないのか?」

「……わたしは汚れてルから」

そう言って床にのたうつ垢まみれの髪に目を落としたが、本当の理由は触れてしまえば人恋しさが募ってどうしようもなくなりそうだったからである。ある日突然現れた彼は、また明日突然消えてしまうかもしれない。その時より深く感じる孤独を抱えきる自信はない。

獅子はしばらく無言で少女を見下ろすと、再び口を開いた。

「そこから出たいか?」

「エ?」

「お前が望むなら叶えてやろう」

言いながら手を揺らす。爪先に引っかけられた鍵束がじゃらんと音を立てた。

「わたしが、望むナら……」

「そうだ」

反芻する少女に獅子が頷く。嘆きも絶望もないはずだった。

「わたしノ望みは――

なのに、どうして希望が胸に宿るのだろう。少女は震える唇で続けた。

「明日もあなたト話がしたイ」



空っぽの監房を最初に発見したのは、食事を運んできた看守だった。開け放たれた牢の入り口には鍵束が落ち、外部からの手引きを匂わせていた。

看守は真っ青になりながら厄災が解き放たれた事を報告に走った。

鍵束に刻まれた紋章――有翼の獅子がなくなっているのに気付いた者は、まだいない。